二日目、19:00。いよいよ硫黄島3島クルーズに出発です。

硫黄島3島の位置関係はこうです。

最初に一晩かけて一番遠い南硫黄島に向かいます。

父島に滞在する人が多い為、東京の竹芝桟橋を出港した時よりも乗船している人は大分減ります。のびのびと船内で過ごす事ができました。寝る場所は1日の通路の隅が気に入ったので同じ場所で寝てました。

翌朝、船内放送に起こされてデッキに出てみると、もう南硫黄島は目の前でした。

ゆっくり島を一周します。

南硫黄島:周囲7.5km 標高916m 面積3.54㎢(東京ドーム75個分)

ちょっと異様な光景に遠近感がおかしくなります。

南硫黄島を後にします。

南硫黄島が海鳥の楽園と言われるのは本当で、カツオドリが付いて来ました。

全然羽ばたかずに船について来ます。船が起こす風に乗っている様です。特に船尾を水面ギリギリで飛ぶカツオドリは船の引き波で発生するハーフパイプ状の波を、文字通りスノーボードのハーフパイプの様に行ったり来たりしながら飛んでいました。水面効果も使てる?

それにしても気持ち良さそうに飛んで・・・・・・・・ジョ、ジョナサン?君なのかい?

ああ、ジョナサンはカモメだったな。

積乱雲デカイ!海の上は直接水蒸気が上がるから雲がでかくなるのか?雲の下に南硫黄島が見えています。その横は雨が降っている様です。少しタイミングがズレたらあの雲の下だったかも知れません。

次の目的地硫黄島が見えて来ました。

タイミングよく晴れ間に入りました。島を一回りします。

硫黄島:周囲 22km 最高峰(摺鉢山)170m 面積23.73㎢(東京ドーム505個分)

正式名称は「いおうとう」

戦前は約1000人の住民がいた。サトウキビ等の栽培が行われていたが、穀物の栽培に適さない為、米は本土から移入に頼っていた。1944年ほぼ全島民が疎開。

1945年2月から3月にかけて「硫黄島の戦い」が行われる。戦闘は37日間続いた。日本側の戦死者2万129人。アメリカ側、戦死者6,821人、戦傷者2万1865人。1968年本土復帰。現在は海上自衛隊の硫黄島航空基地があるが民間人の立ち入りは制限されている。

第一印象は、なんてこった!こんなに小さいのか・・・・。

寄せ手のアメリカは補給が受けれたけど、守りの日本は戦闘前でも2万人を超える人員をよくこの小さな島に配備と運用ができたな、です。

そして、逃げ場がない・・・・・・。

 

 

 

 

摺鉢山

アメリカ海兵隊のあの写真の場所はこの山の頂上です。

 

実際に火山性ガスが吹き出ていて、船の上まで硫黄の匂いが漂って来ます。

自衛隊の飛行場の施設が少しだけ見えます。

そして硫黄島一周を終え、島を離れていきます。

 

「おがさわら丸」は硫黄3島クルーズ最後の目的地、北硫黄島に向かいます。

北硫黄島:周囲 8.8km 標高792m 面積5.57㎢(東京ドーム118個分)

戦前の最盛期には二つの集落があり約220人の人が住んでおり、小学校まであった。

ウソだろ!!!!どこに!!!!

1944年に全島民の強制疎開が行われ、終戦後も島民が戻ることはなく、現在は無人島。

先人達の開拓スピリットに頭が下がる思いです。

島を1周した頃、雲が出始めました。

父島に針路とり帰港します。

夕闇迫る19:00頃、無事に父島、二見港に帰港しました。

硫黄島と、北硫黄島の島民は電気が使われていない時代だったからこそ、あんな過酷な環境で生活できていたのかも知れません。全てが電化された現在では、やはり生活は無理なんだろうな。

それにしても、開拓精神は本当に凄いと思いました。

さて、3日目と四日目の夜は父島に宿泊します。

・・・・続く。